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関羽に関するお話

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東漢建安十二年(208年)、赤壁の戦い後、劉備は武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南郡4郡へ出兵した。劉備の命を受け関羽が長沙へ侵攻をかけた。そのため、長沙にはその戦いに纏わる地名がたくさん残されれている。

関羽は骆驼嘴という名の瀏陽河と湘江の合流点より長沙に入ったが、そこで青龙偃月刀を河に落としてしまった。刀に刻まれている青龍は水に漬かり生き返り、刀と一緒に湘江を逆流し、3.5km離れた涝塘河でやっと見つかったという。それ以後、骆驼嘴は「落刀嘴」、「涝塘河」は「捞(すくう)刀河」と名前が変わった。

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長沙太守韓玄は配下の黄忠に関羽を迎え撃たせた。黄忠と関羽の一騎打ちの最中、黄忠の馬が足を折ってしまい黄忠は絶対絶命の危機に陥った。しかし関羽はこれを斬る事を良しとせず、黄忠を見逃した。一方韓玄は黄忠に関羽を射殺せと命令、黄忠は主命と恩義の板挟みとなって苦しむ。翌日、わざと関羽の兜の付け根を狙って矢を射て、恩を返した。これを見た韓玄は黄忠を疑い処刑しようとする。しかしその時韓玄のもとに身を寄せていた魏延が民衆を扇動し反乱を起こし韓玄は魏延に討たれた。その後、黄忠は家に閉じこもったが、劉備自ら訪ねてきたため、意気に感じて出仕したのである。

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魏延が民衆を扇動し反乱を起こし、韓玄は城南から北に向かって逃げた、磨盘湾のある一本の狭い路地に入ったとき、韓玄は追い手を惑わすため靴先を南向きに置いた、のち、その路地は「南倒脱靴」と呼ばれるようになった。しかし魏延はそれに惑わされず、北方向を追いかけた、韓玄が臬后街にある路地まで逃げ、今度はもうひとつの靴を西向き置いた、のち、そこは「西倒脱靴」と呼ばれるようになった。魏延はそれにも惑わされずひたすら北方向を追い続け、ついに現在の又一村六堆子で韓玄を討った。韓玄が殺害されたところには大きな池があったため、その池は 「刺韓湖」と呼ばれるようになった。韓玄のお墓は現在の長郡中学内にある。

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他にも長沙には「吊馬庄」や「跳馬澗」など戦いにちなんだ地名がある。「吊馬庄」は現在の天心区磨盘湾の北側にあり、関羽が長沙に城入りした後、そこで馬を木に吊るしたことからその名が付いた。また、「跳馬澗」は長沙県飛馬郷にある。そこは山岳地帯で、山の間に一本の小道があり、両側は険しい山壁になっていた。言い伝えによると、そこの谷間を関羽が馬に乗って飛び越えたことから「跳馬澗(谷間)」というその名が付いたそうだ。 

関羽は高名な武将であったことから旧くは武神として、また関羽が義理や信義に厚い人物だったこと、元は塩の密売業者で算盤や大福帳を開発したという伝説から現在は主に商業の神として信仰されている。長沙人は特に関羽を尊重してており、昔より「関帝」を祭る習慣がある。

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